広島市の寺町 について


 
圓龍寺の所在する広島市中区寺町には、浄土真宗本願寺派の寺院が現在本願寺広島別院を含め17ヶ寺が集まっています。
別院から左回りで 本願寺広島別院(仏護寺)・報専坊・善正寺・圓龍寺・正善坊・元成寺・超専寺・眞行寺・常光寺・光圓寺・徳應寺・浄専寺・光福寺・浄 満寺・品龍寺・教順寺・実相寺と並びます。
戦前までは寺内寺(塔頭寺院)が他にもありましたが、戦後に独立移転しています。
現在の17ヶ寺の内、常光寺さんは正善坊さんの塔頭、浄満寺・品龍寺・教順寺・実相寺は本願寺広島別院の塔頭で、現在の別院の形態のように職員が法務を執り行 うまでは、戦後暫くまで本願寺広島別院の法務を担う寺院でした。

寺町の成り立ちに関しては、民俗学の方が諸説述べられていますが、正しい資料に基づいたものが少なく、諸説乱れています。
圓龍寺の寺史からわかる範囲で考えていますが、毛利が安芸国(広島県西部)を統治していたころ、中国地方には北は石見国、江の川添いに三次から毛利の本拠地で ある現在の安芸高田市、そこから南に現在の広島市安佐北区・安佐南区・太田川沿いに安芸太田町から安佐北区安佐町にかけ人口が密集していた地域があります。特 に安佐南区の武田山の周辺(武田山発祥の寺院も多いです)の安集落は、当時安芸国最大の人口密集地とも言われています。
現在の広島市が形を成す前の、安芸国の主要な町でもあります。
この時期に、安芸国の本寺(系統的に開基となる本筋の寺)が30ヶ寺ちょっとあり、毛利が沿岸部に拠点を移そうと広島城建築を始めた頃に、毛利の令により寺町 十二坊と呼ばれる寺が、寺領没収を伴う強制移転をさせられ、広島城下の北門にあたる現在の横川橋の南に集められました。
広島市にはかつて西寺町東寺町と一部で言われていたように他にも寺院の集まる地域はありますが、成立の理由は全く異なります。

本末制度について、本寺が末寺から搾取したという説も多い様ですが、寺院の系統として@@寺グループ(分派)の流れを示すもので、それぞれの地域で本寺 の門徒を預かり、日常の法務や教化伝道を担う寺院でもあり、さらにその下に多くの寺院を広範囲にもっていました。

当時は領民の戸籍は毛利ではなく、それぞれの地域の本寺が地域住民の戸籍管理をしていましたので、その統括の意味が大きかったと言われています。
江戸時代、通行手形の発行は門徒である寺院を通じ門徒台帳から戸籍証明を出し、藩に申請して発行してもらうものでした。
寺院を強制移転させることで、それぞれの寺院の門徒の一部の移転や、広島城建設や城下開発の労働力として活用という思惑があったと思われます。

寺町に強制移転させる事で、毛利のにらみを利かせ一向一揆の防止を計るという通説がありますが、安芸国内で、浄土真宗比率の高い地域での一揆の記録はあ りません。(県北の他宗の多い地域ではあります)(一向一揆ではありませんが)
歴史家の方に良く誤解されている部分です。
なにより、仏護寺(現在の本願寺広島別院)は毛利の親族が開基の寺です。
さらに、寺町に集められた本寺の住職は、登城の義務を負い、それぞれ役職を持ち、藩政に参加し現在で言えば県会議員に相当する仕事を担っていました。
業務上の過失で閉門の罰を受けた寺院の記録もありますので、これは事実です。
現在ではでたらめになりましたが、寺町の本寺の塀の色と施された線が、その役職を示すものだとも言われています。(現在の姿は資料になりません)
史料の中には、広島城下の北の関である寺町に寺院を集めることによって、北部からの城下の守りとしたと解説されているものもあります。
武士ではありませんが、寺町の寺が動員できる人数をもってすればそれは理にかなっています。
また寺町通りの東側の寺院の本堂が通りに向かず南側を向いていることについては、寺の境内に人を集め、城主に対して反乱を起こさないか城から監視していたとい う説もあります。仏護寺(現在の本願寺広島別院)は藩立の寺院なので現在は本堂が南向きですが、原爆で倒壊する前の本堂は通りを向いていたそうです。
また城下の防衛でもあり、藩主の幕府に対する反乱を寺町の寺が監視していたという説もあります。

強制移転させられた寺院の中でも、仏護寺は藩の援助もあり、移転前も現在の祇園北高校南側に龍原十二坊として多くの塔頭寺院を構える規模の大きな寺院でした。 明治の廃藩置県により広島藩が力を失い、仏護寺の運営が破綻し、本願寺に縁のあった紀州浅野家を通じ別院とすることで、廃寺を免れ現在に至っています。
広島藩の藩主は毛利・福島・浅野と変わっていますが、家系として浄土真宗ではない藩主も浄土真宗の弾圧には至っていません。
広島藩が、浅野の時代に四十二万石と言われていますが、米以外の農産物や他の生産などで、百万石に匹敵する経済力を持っていたこと、浄土真宗の影響で口減らし が無かったことも合わさり、大きな領民を抱えた藩でした。
迷信や俗信に囚われないこと、寺子屋の充実で藩内の教育水準が高かったこともあり、江戸後期には最先端の医療技術を誇ったという記録もあります。
多くの若者が食べるものに困らなかったことによる、土地の開拓力は、明治以後に北海道やハワイや北米南米に多くの移民を出していることからも証明されます。
マツダをはじめ、独自技術を誇る地場企業が多く、広島気質といわれるものの基盤ともなっています。
原爆の災禍の中から、歯をくいしばり復興してきた基盤に浄土真宗があったことは明白なことです。


広島への真宗伝播について

安芸門徒と呼ばれる広島藩に多い浄土真宗門徒の流れは、一般に福山市沼隈町の光照寺からというのが定説です。
親鸞聖人の直弟子のひとりが中国地方を回り、その方が開基とも言われています。
その光照寺と毛利が中国地方に浄土真宗を広めたと言われています。毛利の支援が無ければ現在の様にはならなかったかもしれません。
時期的には、室町時代、本願寺八代蓮如聖人の頃と言われます。
学問的にはこれが安芸での定説ですが、主に山間部の寺院がこれに相当します。
寺町の寺院の大半は、この光照寺からの流れではなく、蓮如聖人時代に独自に真宗に改宗した寺院も多く、圓龍寺も現在の呉市蒲刈の門徒であった武家の方に伴われ 船で大阪に行き、京都に上って蓮如聖人に面会し時宗から改宗した記録があります。
時期的には光照寺から伝播するより先です。
安芸門徒の歴史ではあまり言われませんが(歴史について語られる方々が山間部の方が多かった事もあります)瀬戸内海で圧倒的な勢力を誇っていた村上水軍の力が 大きい様に思われます。
村上水軍は武家でもありますが、当時西日本の海運の最大組織でもあり、大阪から瀬戸内海を通り関門海峡から山口県山陰側、日本海にかけての範囲や、
周防灘を南に福岡県や大分県の東部まで多大な影響力を持っていました。
この村上水軍の海上交通により、都の蓮如聖人の教えが海を通って伝わり、西日本の浄土真宗の盛んな地域へ影響を与えていることは明白です。
芸予諸島の旧越智郡(現今治市)は地域では伊予ですが、今治市を含め浄土真宗の流れは安芸の範囲内ともいわれ、安芸の本寺の1つは今治市にあります。浄土真宗 が少ないと言われる四国において、旧越智郡や今治市の浄土真宗寺院の多さもこの村上水軍の影響下にあります。

広島市内の言葉では使いませんが、言葉の語尾に「ちょる」が付く地域(呉文化圏の蒲刈以西・呉・能美江田島・周防大島・周防・長門山陰側・福岡県大分県の豊 前・豊後と呼ばれる地域の沿岸部)への真宗伝播と興驍フ元に村上水軍の力があったのは明白なことです。
蒲刈のとある寺院の本寺が大分にあったりするのもその理由です。

私は史学は専門ではないので気になる方は、語尾に「ちょる」を使う地域の真宗興驍ニ村上水軍との関係で調べてみると面白いかもしれません。