とある「脳死」の一例
はじめに・・
「こうなんだ」と主張したい意図はないので、たわごととお読み下さい。なお、全文に渡り脚色及び創作はございません。
私が学生だった頃、世間がやたらと「生命」とか「いのち」に流れ、講演会などのテーマに盛んに用いtられていた時期がありました。本来こういうテーマは時流に影響されることなく、あらゆる生命体にとって、永遠のテーマであるはずですが、いつのまにか「生命」をいわなくなりました。
不思議なことに、「生命」とか「人間賛歌」という立場では大変に世間の受けは良かったのですが、その内容が終末医療や老人問題であったりするだけで、生命の本質に迫るようなものは何一つなかったのが、個人的には残念でした。なぜ人は「生命」を、病気の進行を止められなくなった状態や、老いる事に関する様々な現象でしか考えることができなくなったのでしょうか。佛教でいう「生老病死」の2つのプロセスだけにしか注目されない、逆に言えば、病気ではない、老化しない、そういう事でしか生命をとらえることができなかったのではないかと思うのでございます。
「生老病死」は何も人間固有のものではなく、すべての生命体に共通する同じ問題ですが、生命への注視が、単なる人間賛歌に過ぎなかったのではないか、単純に、人間が自分自身に対して「人間万歳」をゆっているだけで終わってしまっていたのではないか、そういったひずみが約10年経った現在、あらゆる場所で表面化しているのではないかと思わざるをえません。
大学を卒業して数年の頃、頼りにしていた叔父が脳内出血で倒れ、約2週間後に亡くなりました。命の日が消えるのはたいへんにあっけないことです。今では、いろいろな情報として血管に関する病気の前兆を学びましたが、当時はまさか身内にそのような事が起こるとは思いもよりませんでした。まったく元気であったものが、ある日突然異常を訴え、その数時間後には意識を失ってしまい、どうにもならなくなる。人間だけではなく、あらゆる生命がみな等しく重く大切なものですが、終わるときはこれほどあっけないものはありません。生か死かの2者択一に過ぎないのかもしれません。
もちろん、現在では医療技術の発達により、損傷部位によっては開頭手術を行い、修理に近いような施術により社会復帰できるケースもあるようですが、人間の身体に、未だ人間の手が入れられない箇所があることも事実です。
叔父の場合は、脳内出血により脳へ供給される血液が不足し、付随して脳より心臓へ血圧の増加の命令が出、血圧は上がるが出血のため血液(酸素)が不足し、さらに加圧を要求する事となり、際限なく上がってゆく血圧をただ見ているだけでした。病床の横で見ている者には、少し顔が赤らんではいますが、しんどそうにがんばっている姿、目は閉じていましたが、いっしょうけんめい生きようとしている姿に見えました。
が、このときに、担当の若い医師から「いわゆる脳死の状態です」と言われました。本人はそうは見えないのですが、明らかに後戻りできない状態であることを、思い知らされました。さらに「この状態で長く持っても2週間程度です」とも言われました。そのときはまだ信じられなかったのですが、やがてあれほどあった血圧が徐々に下がり、発熱も引き、普通なら回復していると思える状態になったにもかかわらず、その後、人工呼吸器を装着されました。本人の苦しそうな顔色も元に戻りましたが、機械による規則的な呼吸が、逆に生命活動の停止を表していました。
当時は、まだ「植物状態」と「脳死状態」の区別がはっきりしておらず、かなり混同されていましたが、本人の外見がかわらずとも、脳内の細胞は酸素供給が不足し次第に崩壊を始めるのだそうです。これは決して特別なことではなく、普通に心臓がその全ての仕事を全うし停止した後に、他の循環器がその役目を終え、脳も仕事を終える、ごく普通のプロセスなのです。通常、死因となるものはいくつかあるのでしょうが、循環器系の停止によるもの、脳の故障によるもの、どちらが先とはいえないのではないでしょうか。最近、脳死の解釈についての新しい見解が世に出てきておりますが、「脳死判定」をどうしても急がなければならない理由でもないのならば、ほんとは数日待てば、誰が見ても「死」であると言える状態になります。
では、なぜこの「脳死」から「一般的な死」への以降の期間が待てないのか、これが一番大きな問題かもしれません。なぜそんなに死の判定を急ぐのか、急がなければならない理由があるのか?この件に関しては、マスコミは言及しませんが、「脳死」をもって「死」とすることの合法化の意図するものが何であるか改めて考えてみますと、医療の側から「倫理」「道徳」「宗教」などに都合の良い意見を求めたり、またそれに乗ってしまうことが世間の時流に合うとの立場をとった側にも様々な問題が裏にあります。
なぜ、人生最期の最大でも10日ほどの経過が、待てないのでしょうか。
しかも、それを待てないのは、本人でも、家族でも、友人でも、ありません。
叔父の場合は、生命存続への道が絶たれた状態で、医師から臓器提供の話をもちかけられました。「この先生は何を言い出すのか」というのが正直な気持ちでした。アイバンク登録や、各大学病院での献体登録の様な形式なら、本人の意思が尊重されるべきでしょうが、現在の風潮の中に、たとえば、車の修理をするために、もう走らなくなった車を引っ張ってきて、廃車措置をし、部品取り用に使う。かなり古い映画ですが「ソイレントグリーン」という映画がありました。食糧危機の未来、老人が最期の時を施設で迎え、死後に食料として再生されるものでした。他に臓器売買をテーマにした映画もありました。今では決して映画の話ではありません。
医療技術の向上のための、貴重な犠牲を否定するつもりはありません。我々が普段何気なく飲んでいる市販薬でも、役所の認可が下りるまでにどれだけの実験動物が犠牲になっているか、またそうしなければ認可がおりないシステム、臨床実験という実地テスト、今はないはずですが、学生相手の高給な特殊なアルバイト、それも病気に対する人間の挑戦です。
しかし、それでも私には、現在の脳死問題が、単に臓器移植を有利にするための論理にすぎないとしか思えないのです。移植手術は成功しても、その時点ではマスコミは賞賛の報道をしますが、その患者さんがその後どうなったかについてはほとんど触れられることはありません。老病死に対する、人間の医療のあくなき挑戦を否定するつもりは毛頭ありません。
個人的に、延命措置としての臓器移植を否定するつもりは全くありません。もし自分の子が、自分の臓器を提供する事で助かるならば、2つあるものの内の1つを子供に与えることには何の抵抗もないと思います。もし、自分の肉親に臓器移植が必要な者がおり、もし私が急死するような事が在れば、自分の知った者にその臓器を提供する事は何も問題ないと思います。
現実的には、肉親であっても移植の相性の善し悪しがあり、提供できるとは限らないと思いますが、本人が生前に臓器提供の意志表示をしているならば、それは問題ないはずです。
しかし、なぜ、死を迎えようとする生命を、燃え尽きる瞬間まで待つことができないのでしょう・・・。
命の火が消えることは、ほんとにあっけないものです。
最期まで看取る事が、なぜできなくなったのでしょうか。
西洋では、愛玩動物が不治の病にかかったとき、飼い主がその命にピリオドを打ってやる事が、「愛情」だとされます。
東洋では、息を引き取るまで、側で看取る事が多いかと思います。何もしてやれることはないけれど、最期まで側にいてやる、そのことが大事なのではないか。すべての動物に対して、そうあることはできないと思いますし、自分が食料として食べている命に対しては、常にそう思えるとは言い切れないのです。しかし、「見ている者がつらいから、楽にさせてあげよう」という発想は東洋と西洋では、言い換えれば佛教とキリスト教では、かなり違うと思います。ここが安楽死に対する解釈の相違かもしれません。
脳死は、死に至る一つのプロセスである、そう私は考えます。
合掌
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