圓龍寺
のご紹介
広島市中区寺町にございます。最初広島市西部の武田山にあったものが、現在の広島市安佐南区安古市町安東の南部山に移ったと伝えられています。(現在「南
部山」の地名は呼称として残っていますが、山自体は弘億団地で形を残していません)
その後、広島城を築城する時、当時の都市計画に基づき、現在の地へ移転したと伝えられます。寺を中心とした住民組織を行政の目の届く場所に置くという意味や、
寺の門徒台帳が現在の住民票と同じ様な機能を持っていた時に、それを城下町へ統合する意図もあったようです。
(安には今も圓龍寺のお墓がひっそりと残っています)
他の浄土真宗の盛んであった藩と比べ、広島藩(安芸の国)は藩主が浄土真宗寺院や門徒に対し、規制をかけるより、人員を藩の発展のために生かし、寺や門徒ごと
新開地であった現在の広島市(旧市内)に移させ、開発の原動力とさせた様です。
開基当時は時宗でありましたが、本願寺第八代蓮如上人の時代に上洛し、浄土真宗に改宗したと伝えられます。
安芸地域への浄土真宗の伝播は、備後国の山名の寺から伝わったと一般には言われていますが、当山は蓮如上人の時代に芸予諸島の門徒さん方と上洛し、蓮如上人に
会い浄土真宗に改宗致しました。
当時は広島から京都への交通は、山陽道の陸路か、瀬戸内海航路(大阪から瀬戸内海を抜け下関から日本海沿岸を流通していた航路)で大阪まで行き(約3日ほどで
あったと言われます)川船で淀川を上っていったと伝えられています。
芸予諸島の史料に、蒲刈島に住んでいた武将が僧侶となり、当時の住職と共に本願寺へ参拝し、浄土真宗に改宗した記録が残っています。
広島旧市内の特色として、江戸時代から市内のメインの通りが変わってないという面があります。市内を流れる川が多いため橋が多く、木造からコンクリートや鉄に
変わっただけで通りはほとんどかわっていません。寺町というのは、その広島市を作っている三角州の西側の端であり、広島城下へ北方より入る玄関口でもありまし
た。
戦災で焼け野原となり、境内地の西側を国道54号線の建設で40%近く失いましたが、先代住職の多大な苦労により、現在の形となっています。
境内に墓地があることも、広島城下の寺院の特色となっています。