あんなはなし こんなはなし
時間が経つ
私たちは普段の生活の中で「時間が経つ」という事をあまり意識しないで暮らしていることが多いのではないでしょうか。約束の時間、待ち合わせの時間、決められた時を知るために時計を見ることはありますが、思いの外時間が早く経っている事にびっくりすることがございます。
広島から愛媛の松山へフェリーの定期航路があります。瀬戸内海の島を巡りながら約2時間半の航海なのですが、小学校の時に夏休みの合宿で乗ったときにはこの2時間半が大変長く感じられました。最近になってこの便を利用する事があったのですが、30代の今ではあっという間の船旅でした。
年代によって時間の感じ方が違うことはよくあります。小学校の頃の夏休みの40日はたくさんありましたが、今は1月先の予定に追い回される生活。
思い出の中のあの時に帰りたいという思いは誰にもあると思います。しかし私たちは「今」という現実の中を進みながらほんの1秒前にでさえ戻る事はできません。浦島太郎などの昔話やSFのタイムマシンの話、みな時間の流れに逆おうとする願いが生み出したものかもしれませんが、現代の文明でも時の流れに逆らう事はできません。
この時間の流れは、私たちの世界にいかなる場所にも流れています。時間が経つ、年を取るという事は私たちが自らの命の火を燃やしながら歩んでいく事でありますが、同時に自分自身が変わっていく事でもあります。永遠の命というものを人々は願いとして語ってきました。しかし、私たちの世界ではこの時間の流れに影響をうけないでいつまでも変わらずに「存在」することはかなわない事です。
しかし、だからといって私たちの命が永遠でないから、やがて衰えて燃え尽きてしまうから、つまらないものだ弱いものだと言えるかというと、そうではない面をしっかりもっています。
それは私たち自身が、それぞれに「生きようとする意志」と「生きる目的」をしっかり持っているからです。
確かに私たちは1秒前にも戻ることはできませんが、その一生懸命生きようとしているその命の姿を、決して見放さないぞ、忘れないぞと阿弥陀様が願いをたてられています。ここに私たちの命のあり方というものが問われてくるのではないでしょうか。
手塚治虫氏は生前に「私は無神論者だ」とおっしゃっておられましたが、氏の作品の「火の鳥」の中に、様々な形で人間の考える「永遠の命」が問われています。そのすべてのケースにおいて「時間の変化」というものが深くかかわっています。
ほんとうは1秒たりとも無駄にできない命ですが、なかなか一生懸命ベストに生きて行くのは難しい事でございます。
私たちの命はほんとに瞬きの一瞬かもしれません。しかし精一杯その火を燃やして進んで行かなければなりません。私たちは決して一人だけで生まれてきたわけではありません。また、一人だけで生きているわけでもありません。
1999/11/27
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