あんなはなし こんなはなし




インコのなむあみだぶつ

 毎月お参りしているお家で、ダルマインコを飼っておられる家がありました。その家にお参りにいきますと、仏壇でお参りをする時、鐘をたたくのに合わせて「なまんだぶなまんだぶ」と後ろで小さい声がします。その家のおばあさんの声に良く似ている声ですが、その声の主は、ダルマインコでございました。

 九官鳥やインコの類は、声(音声)の模写がうまく、そこの家のご主人の「はっくしょーぃ」というような大きなくしゃみをまねしたり、呼び鈴の音に合わせて「はいはいいまいきます」とまねをするものもいます。
たしかに、この鳥達は耳で聞こえた音を、状況に応じてまねをしているだけではありますが、それでは鐘の音に合わせて「なんまんだぶ」とさえずる鳥の鳴き真似はどうなんでしょうか。

 真似はあくまでも真似ですが、真似をするには元が必要です。インコでさえ覚えるくらいお家の中で「なんまんだぶ」が日常であった、そうみることもできるのではないでしょうか。逆に、インコ達が真似でありながら「なんまんだぶ」と言えるのに、なぜ人間は言いにくいのでしょうか。

 「馬の耳に念仏」ということわざがあります。馬の耳元で「念仏してやっても」馬にはその功徳がわからない、意味の無いことのたとえとして使われますが、浄土真宗では、はたしてそれでよいのか?すこしひっかかる気が致します。
 馬にも耳はついています。人間の言葉はしゃべれませんが、耳があるから聞こえています。人間の言葉には、文字を文法的に発音するだけでなく、アクセントやイントネーションで心理状態を伝える要素もあります。これが馬にわからないとだれがいえるでしょうか。
 われわれ幼いときが「ことば」をしゃべり始めたころを思い出してみましょう。それは耳から入ってくる音を口でまねる事からはじまっていたはずです。「馬の耳に念仏」、馬の耳元で「念仏させていただく」とき、その場に念仏のご縁があるのではと考えます。

 インコの「なんまんだぶ」は確かに人間の言葉ではありません。しかし、浄土真宗の念仏も、単なる人間の言葉(言語)ではありません。インコの「なんまんだぶ」を聞いたとき、インコの耳にも「なんまんだぶ」が聞こえている、だから真似をする。その家の人、その家のインコ、すべてが「なんまんだぶ」の声のする場所にいる。そのことに気付けるのではないでしょうか。

 わたしたちが最初に「なんまんだぶ」と口にしたとき  それは言語だったでしょうか?
 気づいたときには「なんまんだぶ」と耳から聞こえてきた、そういうご縁の中で日々を精一杯おくらせていただこうと思うのでございます。





1997/02/07