浄土真宗って?
宗教は何のためにあるの?
「宗教」とか「信仰」という言葉からはいろいろなイメージがあると思います。一般には宗教というのは教養の一つであるとか、人生を豊かにするもので宗教心の無い生き方は虚しいだけだとか、人間として立派になるためのものだ、とかいろいろな事が言われるかもしれません。死者儀礼だという方もいるかもしれません。
また、「交通安全」「合格祈願」「無病息災」とかの御願い事のためと思われる方もあるかもしれないです。
ところで、宗教というのは何のためにあるのでしょうか。幸せのため?有意義な人生のため?
仏教では「抜苦与楽」(ばっくよらく)という事を言います。字の通り 苦しみを抜き 楽を与える という事です。では「苦」とは何でしょうか。
一般には「苦」と感じる物はいろいろあるでしょう、「辛いこと」「悲しいこと」「思うようにならないこと」、しかし仏教では一番の苦となる物を「生老病死」(しょうろうびょうし)と言います。「四苦八苦」という言葉がありますが、これは元々仏教の言葉で、その一番主な四つの苦、それが「生老病死」です。
「生」(しょう)とは この世の中の命には必ず始まりがあるという事 命は生まれてくるものだという事です。
「老」(ろう)とは 命あるものは必ず年齢と共に変わっていかねばならないという事。
「病」(びょう)とは 命あるものは時として命に関わるような病気とも向かい合わねばならない時があるという事。
「死」(し)とは 命には必ず死という終わりがあるという事。
これを「生老病死」と言います。近年この最初の「生」を「生きること」と理解し、他の「老・病・死」と相反するものだという見方をされる方もいらっしゃいますが、これは誤りです。この生老病死はお釈迦様が釈迦族の皇太子であられたとき、城の外の人々の暮らしを東西南北の四つの城門から出られて見て回られた時、「赤ちゃんが生まれる所に出会う」「年老いた人たちに出会う」「病気で苦しんでいるのに薬を与える事をせず、祈祷を受けている場面に遭遇する」「葬儀に出会う」という事からお城の中のきらびやかな世界があっても、人はこういう生き方をするのだと悟られた大きなポイントが元になっています。
どんなに豊かな暮らしをしていようと、命は生まれてきて、年をとって行き、病気になって、死んでいかねばならない、これには絶対に例外は無い事です。人間だけではなく、すべての生き物がそうなのです。
これを幼いながらも悟られたお釈迦様は、皇太子という立場を捨て、お城を出られて出家されたのです。
お釈迦様がいらっしゃったのは今から2500年以上昔の事なのですが、当時も医学があり、医療というものがありながら、祈祷やまじないに頼る人は多かった様です。悲しいことに、2500年以上経った現在でも、これはなにも変わっていません。愚かな事です。
このほかに
自分の思い通りにならないこと
どんなに愛する人であってもいつかは別れなければならないこと
嫌な人であっても会わないわけにはいかないこと
欲しい物が手に入らないこと
この四つを加えて八苦といいます。
これが仏教で言う「苦」です。この最初の生老病死というのは「命に関わること」を意味します。
仏教では命が生まれてくる事も死んでいかねばならない事も そのすべてが「命が生きること」と解釈されます。
私たちは生まれ出て気が付いたときにはいつの間にか一つの命をいただいてここに生きています。回りを見れば大切な家族の方々、ご親戚の方々、大勢のお知り合いやご友人たちに囲まれています。その中にはもう先に亡くなられた方もいらっしゃるかもしれません。そういう人々の中に居るという事は一切のいきとしいけるもの(人間だけでなくすべての生物にとって)にとって「自分がここに居る」という自我の基本となる一番大事な事です。
ところが困った事にこの命は年をとって変化していかねばなりません。病気にもなるかもしれません。しかも困った事にこの一番嬉しい「命」には必ず「死」という終わりが確実に訪れます。これはすべての生命にとって一大事なのです。これはどんな人も助けてはくれません。目の前のどんな大切な人が命を終えようとしても代わってあげる事もできません。
では「命」は終わりのために生きているのでしょうか。命というものには必ずその命が生きる目的、その命が存在する理由というものを備えています。自分で気付かなくても自分が今ここに居るというのは必ず意味を持っているのです。「自分のため」「身近な者のため」「他の者のため」、なぜなら、命は一人だけで意味を成しているわけではないからです。
私たちの命がここにあるとき、必ず回りにいろいろな人、いろいろな命があってくれます。その関係というのは人間だけではないかもしれません。
私たちはついつい命を自分の事だけで見てしまいますが、命は単独で意味を持っているわけではありません。
「死」というのは大変に困った巨大な問題なのですが、もしその「死」という事が無くなり、永遠の命を現実に自分が手に入れたとしましょう。これによって不老不死の命を得た人は年を取ることを恐れる必要はありません。事故や病気で死ぬこともありません。不死身の命なのです。しかしそれがもしこの宇宙の中で自分だけだったらどうなのでしょう。それでも死にたい人は居ないと思いますが、誰に会うこともない、どんな生物にも会うことがない、何も無い世界の中で自分だけがただ「存在」したとして、それを「生きていること」だと感じることはできるでしょうか。
多分それは違うのだと思います。他者とのつながりの中に在って初めて私たちは命の意味を見ることができるのではないでしょうか。それは単なる「生き甲斐」とかという次元の話ではありません。あらゆる生命がそれぞれつながりあって、その中で命の意味を持っているのです。心臓が動いている、呼吸をしている、意識がある、その現象だけでは生命は説明つかないのです。
その「いのち」を問うて行くこと、「死」を解決すること、それが宗教の目的なのです。
これはキリスト教であってもイスラム教であってもヒンズー教であってもユダヤ教であっても、それぞれに成立背景や民族や文化の違いがあるので細かな見方は異なっていますが、真ん中に据えられているのが「限りある命」という事では全く同じです。
私たちにとって一番大切な「命」を問うこと それが宗教の目的なのです。
特に仏教ではあらゆる生命体の命を等しくとらえます。(これは基本です)(命に優劣はありません)お釈迦様が亡くなられたとき、あらゆる動物達が周囲で嘆き悲しんでいる釈迦涅槃図が残っています。またお釈迦様が悟りを得られて、最初に説法をされた相手は鹿であると言われています。(人間は最初疑って聞かなかった)(お釈迦様の尊さに鹿さえも反応したという比喩の意味もありますが)
これはすべての生物にとって一番大事な命をお釈迦様が説かれたからなのです。
2008/01/14