浄土真宗って?
「浄土」と「この世」何が違うの?
「お浄土」はどこにある?と聞かれて、「西の彼方にある世界だよ」と答えてもらっても、なにかもうひとつぴんとこない時代になってしまったのかもしれません。
確かに、西の方にずっと進んでいっても、それは地球の上を回っているだけで、端っこはないのかもしれません。「西」と聞いたとき、私たちは何を連想するでしょうか?「太陽が沈んで行く方角」そう答えるかもしれません。太陽が沈んでいくのではなく、地球が回っていることを知っていてもやはり、夕焼け空の日暮れをみると、なにやらすべてが還って行く方角に思えます。
実は、私たちが毎日見ている太陽も、2500年以上も前にお釈迦様が見上げていた太陽も同じお日様なのです。こう考えていくと太陽というのはたいしたもんだと感じたりします。
太陽が沈むと、夜がやってきます。最近では町中は夜でもこうこうと明かりが灯り、なかなか星を見ることが難しくなりました。たまに、空気の澄んだ山の上に行ったりすると、星の数の多さに驚いたり、じっと見つめていると流れ星が見えたり、じわじわと動く星が見つかったりして驚きますが、人工衛星だったりもします。
星を見上げたとき、真っ暗な暗闇の中に星がみえるわけですが、その暗闇をずっとずっとまっすぐに進んでいくとどこにたどり着くのでしょうか?現在では「宇宙は膨張している」と知識で知っていますが、「ではその膨張していく外側は何なの?」と思うと、これは大変に不思議なことです。「どこかにきっと外れがあるはず」なのです。これを私たちの「この世」の空間の広さと考えます。
時間について考えてみましょう。私たちは歴史や科学の本で、地球が出来た頃の時代や、その後に原始的な生命体が海に生まれ、やがて陸へ登って、その中からほ乳類の祖先ができ、そのうち2本足で歩くものが生まれ、やがて人類へと発展し、道具を使い、火を使い、現在のわれわれに発展したと知ることができます。
では、その前はどうだったんでしょうか?どんなに詳しい歴史の本を読んでも、年表をさかのぼると、どこかで途切れています。「いったいこの世はどこから始まったのでしょうか?」どこかにあるはずのこの世の始まりから現在まで、これを私たちの「この世」の時間の広さと考えます。
この「空間」も「時間」も必ず「変化」や「限界」があります。「お浄土」というと「極楽」というように「あぁ極楽極楽」というが如く、「楽の極限」「すべての夢がかなうところ」と思われます。じつは何が極楽かといえば、この「空間」と「時間」に限りがない、無限大であるということ。「いつまでも同じであることができる」「どこにでも行くことができる」こと、これが「この世」と一番違うところなのです。
だから、お浄土の仏さまは、永遠に歳をとることもなく、いつまでも同じように我々を見守ってくださるのです。
最終更新 1997/02/09