浄土真宗って?
「他力」と聞くけど何が他力?
「浄土真宗は他力の救いだ」とよくいいます。「他力」というと、「自力」の反対の言葉で、「自分の力でないものの力」そう考えられることが多いです。
世間で使われる言葉で「他力本願」ということがありますが、「自分の力ではどうにもならないことを他人任せにする」と理解されています。
しかし、浄土真宗本来の「他力」はそのようなものではありません。
人間(どんな生き物もそうですが)が物事を判断するときは、その判断の基準となるものがあります。その基準は本能的なものであったり、経験によって得たものであったり、道徳とか倫理という社会のルールであったりします。しかし、それぞれ個人差はあり、すべての人がまったく同じ基準をもっているわけではありません。道徳や倫理も揺らぎがないものと思われますが、これさえも時代によって社会によって変化します。
そのように、判断する基準、良いか悪いかの基準が変わってしまっては、私たちは何をすればよいのかがわからなくなってしまいます。
キリスト教など、西洋の思想では、「善」の方向の極限に「神様」がいらっしゃり、「悪」の極限に「悪魔」がいると考え、どちらに近づくかで「善悪」を決めます。
仏教では「善」「悪」という言葉のかわりに「真実」「不実」という言葉をしばしば用います。ものの有様を素直にそのまま見ることができれば「真実」ですが、人間の主観はしばしばこの「真実の姿」以外のものをそこに見ようとします。これは「不実」です。この真実かどうかという基準を自分におかない事、その基準を相対基準である自分に置かず、絶対である浄土の阿弥陀様の基準に照らすこと、これを「他力」といいます。
「相対」を「善」の方向へいくら究極的に延長しても、「絶対」である「真実」にはとどきません。
人間の価値判断の基準を人間が自らの中におき、自己管理することの限界、それを「自力」といい、それを離れることを「他力」と呼びます。
「自力のこころ」から離れた状態、それを「他力」と浄土真宗では言います。
なにもしなくていいこと と誤解されやすいのですが、価値基準を阿弥陀様の光に照らすことであり、自分でなにもしないことではありません。
最終更新 1997/02/08