浄土真宗って?


「救われる」というのはどうなること?


 阿弥陀様(あみださま)がお救いになる、と良く聞きます。阿弥陀様は、この世の中に存在するすべての衆生(生命体)を自分の子供のように案じてくださっています。「歎異抄」(たんにしょう)という親鸞聖人(しんらんしょうにん)のお言葉をお弟子さんが書き残した書物の中に、「一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり」とあります。有情(うじょう)は衆生(しゅじょう)と同じ言葉の翻訳語です。
 一切のいのちあるものは、あらゆるものたちの父母兄弟である・・・と言われても、人間である我々には、猫の親戚がいるはずもなく・・不思議に思われるかもしれません。しかし、阿弥陀様はすべての命あるものを救うぞ、一切の命あるものたちの、その命の足跡を虚しいものにしないぞと「願い」をたてられ、すべての命あるものをその大悲の中にいつくしみはぐくんでおられます。
 どんな命にとっても阿弥陀様は「おや」である。「おや」が一緒であるから、「兄弟」であります。

 普通、宗教で「救われる」といった場合は、例えば困っていることが解決する、試験に合格する、窮地を脱することができる、恋愛が成就する等と、身の回りの「こうなってほしい」「こうありたい」という願いが叶うことをいいます。
 しかし、阿弥陀様の救いというのは、私が転けたときに天から手をさしのべてくれたり、お金が足りないときに代わりに払ってくれたり、病気になったのを治してくれたりはしません。
 お釈迦様がおられた時代といえば、今から2500−2800年くらい前だといわれておりますが、そんな大昔にも医療技術というものは現代とレベルは違いますが、ありました。しかし、当時でさえ、病気になっても医者に診せず、まじないに頼ったりしている人がいて、そのありさまをお釈迦様は嘆かれたと伝えられます。病気になったらお医者さんにいきましょう。

 浄土真宗の救いというのは、そういう人間の欲望を満たすものではありません。救われるとは、もっと大事なこと、「我々自身の命の理(ことわり)に気づき、想像を絶するほどを大きなご縁が我々の命に至り届いている」その事に気づくことが出来ることを一面では言っています。

 浄土真宗の救済は、「お金はもうかりません」「恋愛成就に御利益もありません」「病気も治りません」、しかし自分の命の本当のご縁に気づくことができます。

 無から産まれた命というのはありません。生命体が、次の世代に命を伝える方法には、二つの命が出遇ってお腹から産まれる(胎生)、卵から産まれる(卵生)、一つの命が分裂して別の個体となる(湿生 今で言う細胞分裂)がありますが、どれもが必ず親をもっています。命の起源がどこなのか?それは人間の思考では理解できない世界ですが、今ここに至り届いている命に気づかせていただいたとき、「人間だ」「犬だ」「猫だ」「かぶと虫だ」「みみずだ」といった別を離れ、「いのち」に出遇うことができるのではないか、そう思うことでございます。





最終更新 1997/02/08